能登ゆかりの人々(2)

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1577(天正5)年から翌年春に死去するまで、能登は関東管領・上杉謙信(1530-1578)が支配していました。
越後の龍、軍神、義の武将と称えられ、勝率97%を誇ったとされる謙信は、今でも戦国大名の中でトップクラスの人気があります。

それまでは、守護大名・畠山氏が約170年間この地を支配し、7代目・畠山義総(1491-1545)の頃に全盛期を迎えました。
時は下克上の時代です。義総の孫・義綱は重臣たち(畠山七人衆)によって追放され、能登は事実上、畠山七人衆によって統治されるようになりました。

1576(天正4)年、関東管領・上杉謙信と、新興勢力・織田信長(1534-1582)のいずれにつくかで内紛が勃発します。畠山勢は名城・七尾城に約1年間立てこもるも、疫病の蔓延、親上杉派の裏切りにより堅固な城は陥落し、能登は謙信の支配下に置かれます。信長の直臣・前田利家(1538-1599)がこの地を治めるようになったのは、1581(天正9)年以降のことです。

以上は史実として一般的に知られている話ですが、地元には次のような言い伝えがあります。
―名舟の漁師たちが仮面をつけて陣太鼓を打ち鳴らし、破竹の勢いで能登に攻め込んできた上杉軍を退散させた。

民衆の立場からすれば、自分たちの生活を脅かすものは、相手が誰であれどのような大義があれ、外敵、災難に違いありません。
恐ろしい軍勢を退散させた陣太鼓は、伝統芸能「御陣乗太鼓」(ごじんじょだいこ)として今に伝わっています。

今年は、来週16日に金沢駅で開かれる北陸新幹線敦賀延伸記念イベントでも演奏が披露されるそうです。
北陸の新しい歴史の幕開けをお祝いするとともに、能登の一日も早い復興を、心からお祈り申し上げます。

 

画像出典:国立国会図書館「NDLイメージバンク
「月百姿 霜満軍営秋気清数行過鳫月三更 謙信」、月岡芳年(絵)、秋山武右衛門(版元)、明治時代(19世紀)

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