能楽『石橋』と心の驕り(1)
日本の古典文学や芸能には、「人間の心の驕りを戒める」という強いメッセージが込められています。
例えば、今から約800年前に成立した『平家物語』は、まず冒頭でその戒めと、それを忘れた人生の結末を簡潔かつ印象深く述べています。その前後に成立した随筆『方丈記』、『徒然草』も、心の驕りを抑制した生き方を極めて肯定的にとらえています。のちの室町期に確立した能楽、連歌、茶の湯いずれも、「いかに心の驕りと向き合うか」というコンセプトが根底にあります。
現在鋭意開発中のNFTマーケットプレイス「問茶会」(Tou Chakai)も、こうした日本の伝統的な価値観を取り入れています。冒頭のキービジュアルの橋と二匹の獅子は、能楽の演目『石橋(しゃっきょう)』に由来します。
後半部の獅子の舞は昔から祝賀の席で演じられ、明治時代以降は海外の賓客をもてなす演能としても舞われるようになりました。その豪壮華麗な舞は歌舞伎の『連獅子』などにも取り入れられているため、ご存じの方も多いと思います。
実は、『石橋』は成立時期や作者がはっきりしない、謎に満ちた演目です。
そして、華やかで躍動的な後半部に比較し、前半部は動きが極めて少ない上、上演の機会も滅多にありません。
前半部の主人公(シテ)は、獅子ではなく能面を被った不思議な少年です。そしてもう一人の登場人物(ワキ)は、約1000年前に実在した貴族で、傷心を抱いて出家し中国に渡った僧・寂昭法師(962 – 1034)です。
この少年は、寂昭法師が喜び勇んで目の前の石橋を渡ろうとすると、次のように戒めます。
「自分に法力があるからといって、たやすく渡れると思ってはいけない。」
「神仏の力を得なければ、誰もこの橋を渡ることはできない。」
果たして、この橋が何を示すのか。そして寂昭法師は願い通り、橋を渡ることができたのか。
他の演目同様、『石橋』は回答や結論を示さず、観客の自由な解釈に委ねています。
私はこの解釈に真正面から取り組み、そしてビジネスを通じ世に問いたいと考えました。次回は皆様と一緒に、この作品を更に深掘りしてまいりたいと思います。
参照サイト:the能ドットコム『石橋』