能楽『石橋』と心の驕り(2)

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前回の続き)

果たして、石橋とは何を意味するのか。舞台には、橋をイメージさせる仕掛けは一切ありません。
それを探るためには、登場人物のセリフや、地謡(じうたい)と呼ばれるコーラスに注意深く耳を傾ける必要があります。

能面を被った不思議な少年は、舞台に登場してまもなく、次のようにつぶやきます。
「人は誰しも目先のことにとらわれて、日々を生きていくのであろう。」
「自分が何者であるのか、どこにいるのかも分からないまま、あっという間に時間だけが過ぎていく。」

そして、少年や地謡は、一人で石橋を渡ることがいかに危険かを語り始めます。
「この橋は幅30センチ、長さ9メートルに満たず、苔がむしてとても滑りやすく、歩くこともおぼつかない。」
「橋から谷底まで約3,000メートル、まるで地獄と思えるほど深く、白波の立つ谷川で、生きた心地もしない。」

最後に「ここで待っていればよいことがある」と告げ、少年は舞台から静かに立ち去ります。その後の寂昭法師の行く末については何も示さず前半部は終了し、後半部の獅子の舞が始まります。

霧深く、目もくらむような高い谷にかかった、狭く短く滑りやすい石橋。
いかに修行を積んだ人でも、一人ではたやすく渡れない橋。
それは、冒頭で少年がつぶやいた、私たちの人生そのものではないでしょうか。

当社は、同じ時代を生きるお一人お一人が、NFTマーケットプレイス「問茶会」(Tou Chakai)を通じ、適切なタイミングで一流の識者からアドバイスを受けることにより、驕らず、恐れず、焦らず、自分の人生を自分らしく輝かせることのお役に立ちたいと考えております。

ところで、当時の貴族の日記や広く読まれた説話によれば、寂昭法師は日本で出家し師匠の下で仏教を学んだあと、1003年9月に入宋し、高僧の下で更に修行に励み、真宗皇帝(968 – 1022)から紫衣と円通大師の称号を賜ったとされています。

石橋ならぬ海を渡り、ひたすら精進し名を上げた寂昭法師に思いを馳せながら、次回は後半部の豪壮華麗な獅子の舞が何を示すかについて、引き続き皆様と一緒に考察してまいりたいと思います。

参照サイト:the能ドットコム『石橋

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