文化財 × 先端技術でできること(1)
安土桃山時代を代表する武将・織田信長(1534-1582)が発給した文書(家臣が代筆したものを含み、以下「信長文書」といいます)のうち、現存が確認できる原本は全部で約800通あるそうです。
そのうち60通(宛先が細川藤孝(1534-1610)・忠興父子以外の文書4通を含む)が細川家のコレクションであり、今回の秋季展では、その全てが一挙公開されるとのことで、永青文庫(東京都文京区目白台)の館内は平日にもかかわらず、老若男女の鑑賞者で賑わっていました。
440年以上の時を経た手書きの文書は、まるで一つひとつが歴史の生き証人のようにも見えました。改めて、本物の凄みに深く感じ入るとともに、文字情報からだけでも、伝わってくるもの、分かることが多いことに気付かされました。
主君である足利義昭(1537-1597)との関係修復に「これでよかったのだろうか」とつぶやき、故・武田信玄(1521-1573)による3年前の裏切り行為を「近年の鬱憤」と吐き捨てるような物言いからは、まるで生前の信長の声まで聞こえてくるかのような錯覚を覚えました。
また、一向一揆、鳥取城に対する信長の攻撃命令や家臣の現状報告からは、戦国の世の生々しさが伝わってきました。
打って変わって、「よくやった!」と言わんばかりの豪快な筆運びで記された冒頭の自筆文書からは、当時10代の細川忠興(1563-1645)に対する、信長の並々ならぬ期待が伝わってくるようで、受け取った少年武将の喜びと誇りに満ちた表情までも目に浮かんでくるような感じがしました。
一方で、織田信長という人物は、相対する人の立場によって印象や評価がかなり異なる偉人の一人でもあります。今回の展示のうち56通はあくまで「細川家から見た信長」であり、現存が確認できる原本の7%程度に過ぎません。
全ての原本約800通を一つのデーターベース上で見ることができれば、私たちはこの激動の時代を生き抜いた偉人たちから、より多くの学びを得ることができるかもしれません。
ところで、藤孝・忠興の後継であり、初代熊本藩主・細川忠利(1586-1641)は、当時すでに各所に散逸していた細川家伝来の信長文書の収集と熊本での一元管理に対し、最期まで執念を燃やし続けたとされています。このエピソードにあやかり、次回は生成AIを活用し、同時代にイエズス会や東インド会社を通じて欧州に拡散した信長関連の史料について、いくつかご紹介したいと思います。
画像出典:文化遺産オンライン
重要文化財「織田信長自筆書状〈十月二日/長岡与一郎宛〉」、1577(天正5)年、公益財団法人永青文庫蔵