NFTマーケットプレイス「問茶会」(Tou Chakai)とは(2)

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前回の続き)

茶会のスタイルは時代により変化を遂げています。

室町時代(1333-1573)の初期、茶会とは武士たちが茶の産地を飲み当てるゲームをする場でした。
参加者が持ち寄った高価な金品を勝者が独り占めできる、一種の賭博性を帯びていました。
このため、幕府からは禁止令が出され、都の人々からは批判の対象にされることもありました。

室町幕府の歴代の将軍は、中国の宋・元代の絵画や茶道具を愛好しました。将軍家に招かれた客人たちは、専用の広間で、特別に飾り立てられたそれらの文物を鑑賞しながら喫茶を楽しみました。

やがて戦乱などにより幕府の財政がひっ迫すると、それらの将軍家コレクションは有力な戦国大名や大都市の豪商たちに売り渡されることになります。幕府の権威が低下しても、それら選りすぐりの舶来品はブランドとして依然高い人気を誇りました。

現代の多くの日本人がイメージする小さな茶室、和物の茶道具を用いた茶会のスタイルが確立したのは、それから約100年が経過した頃でした。

その立役者である千利休(1522-1591)は、堺の商人でもあり、また、時の天下人の重要な戦略パートナーでもあり、多くの名だたる大名たちが彼の茶の湯の弟子になりました。

生前に描かれた冒頭の絵からは、まるで信長や秀吉と向かい合って座っているような気迫が感じられます。猛将・福島正則は、「自分はいかなる強敵に向かっても恐れることはないが、利休に向かうと臆するところがある」と語ったと言われています(『細川忠興家譜』)。

その利休が茶会で最も大事にしたのは、「主客の直心の交わり」でした。あの独特の茶室や茶道具は、それを実現するために考案されたとも言えます。そして、利休は自分の信念のために命をかけた人でもありました。辞世の句は、武将以上に武将らしい言葉で締めくくられています。

利休の気宇壮大さに思いを馳せながら、当社NFTマーケットプレイス「問茶会」(Tou Chakai)においても、「主客の直心の交わり」の実現のため、メンバー一丸となり全力で準備に取り組んでおります。次回は、問茶会の名称の由来についてお話させていただけますと幸いです。

画像出典:
重要文化財「千利休像」(部分)、伝長谷川等伯筆、1583年(安土桃山時代)、正木美術館蔵

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